松江南ロータリー四方山話 ~ 福島邦光氏談

本記事は、松江南ロータリークラブ創立60周年記念対談より、チャーターメンバーであります福島邦光名誉会員の談話を一部抜粋したものです。

松江南ロータリークラブの歴史はもちろん、その当時の松江の世情も窺い知る事の出来る興味深いお話となっておりますので、どうぞお楽しみ下さい。

集合写真

対談参加者の集合写真

福島邦光名誉会員談 ~その1~

松江南RCは1960年10月24日に仮クラブというので発足しております。仮クラブというのは、まだ認証状が来ていませんので「仮に」という事です。これは昔、日銀(現カラコロ工房)の前を突き当たったところに商工会議所会館というところがありまして、そこで式を行いました。ガバナーはいらっしゃらず特別代表が任命され、一畑電鉄の社長をされていました松江RCの山本孝吉さんにお越し頂きまして発足した訳です。

その時の松江南RCの会長というのが「石倉俊寛」という元松江市長で、その前は海軍の軍人という方でした。日本海海戦を経験し昭和4年から松江市長をされていましたが、昭和20年8月に任期満了(4期目)で退職され、やがて皆さんのご推挙で信用金庫の理事長という職に就かれました。

福島邦光名誉会員

福島邦光名誉会員

この方は雑賀町のご出身で松江中学(松江北高の前身)に進学されました。海軍時代何が一番鍛えられたかと聞きますと、「英語」なのだそうです。海軍に入る時も英語、海軍内の学校の試験にしても英語と英語漬けです。なぜそんなに英語ばかりなのかというと、当時の海軍の軍艦は、英国製だったからです。つまり使用方法がみんな英語で書いてあり、それを読んで下の者に伝えるのが仕事だったのです。

ポール・ハリスが世界初のロータリークラブを設立(1905年2月23日)した同じ年、1905年(明治38年)5月28日に日本海海戦があり、連合艦隊の旗艦「三笠」に東郷平八郎元帥が乗船されていました。石倉俊寛さんは副官として第2艦隊の旗艦「出雲」に乗り日本海海戦に参戦されました。また「三笠」にも乗艦されたことがあるとのことでした。

その後日本海海戦で、勝利したことから5月27日、28日が海軍記念日となりました。それで5月が来ますと、みなさんロータリーの合間に「三笠」の話をしてくれと催促するわけです。そこで必ず日本海海戦の一行(ひとくだり)を話されました。ちょうどポール・ハリスがロータリークラブを作った年ということで、ものすごく因縁が深い年なのです。

ですので石倉俊寛さんは会長をされていた時おそらく80歳くらいだったのではないかと思います。石倉俊寛さんのロータリーでのスピーチで覚えている事があります。当時こういった会合をすると、皆さん社長さんであったり大物だったりしますが、「大物は会合に遅れてくるものだ」という風な、まずい風潮がありました。「これではいけません、ロータリーの会の意図に反します。万事“パンクチュアリー(punctually)”でなければならない」と言われるわけです。これは英語なのですが、普通は使わない英語です。パンクチュエーション(punctuation)などの名詞は使う事がありますが、副詞ではなかなか使いません。実はこれは「時間厳守」という意味の海軍用語なのです。そういう言い方をされる大変面白い方でした。

その時副会長をされていたのが松本美行さんという、人参方にお住いの方で、のちに会長もされました。そして幹事が石橋町の森山時雄さんという方で、この方は住まいも職場も全て橋北で、彼だけが唯一「北」から来てくれた方でした。

福島邦光名誉会員談 ~その2~

松江RCの初代会長は島根県知事をされました田部長右衛門さんです。松江RCは松江南RCより8、9年前に出来上がっておりますので、そうそうたる皆さんが揃っていました。松江南RCの皆さんは、ロータリーの事や用語なども、最初は何の事だかちんぷんかんぷんでした。仮クラブになって例会はやっているのですが、認証状がなかなか来ないのです。

対談の様子

対談は終始和やかな雰囲気で行われました

考えてみますと、新たに南にロータリークラブを作るというのは、ものすごく不自然な形態なのです。松江の人口が当時約15万人くらいだったと思います。松江市は川を隔てて南北に分かれており、合わせたものが松江市なのですが、その南だけでアディッショナルクラブをつくるということは一体どういう事なのかと、「RI」から何度も問い合わせがありました。今後、北の方に、後になってアディッショナルクラブを作ることがあるのか無いのか、といった質問もあったそうです。なかなか認めてもらえず、待てど暮らせどガバナー事務所から認証状が来ないということがありました。

松江の町は発展の歴史からしますと、まず北側に松江城があり、そこから南側は後から発展してきた町です。そういった意味でアディッショナルクラブが南にあるという事に価値がある訳で、そのことを「RI」にはなかなか分かってもらえず、ご承認を頂けなかったということのようでした。それでアメリカのエバーストンではずいぶんと揉めたらしいです。(笑)

認証状が来なかったわけですが、とうとう1年がかりで認証されました。待っているうちに1961年の初めの頃になり、それで「さあ認証状の伝達式にチャーターナイトというものをやらないといけない」という事になりました。当時、今の県民会館に公会堂というものがありまして、10月31日にそこで行いました。私が一番年下で30才でした。かたや上は、会長が80才です。とにかく着物を着て来いというので(家内と一緒に)行きましたら、みんなお姑さん位の年齢の方ばっかりだったのでびっくりしたと家内が言っておりました。それはそうです。みなさん私たちより50才位、年上の方ばっかりだったのですから。

他にもいろいろとありましたが、認証で揉めただけあって面白い方がたくさんいらっしゃいました。ヤクルト販売の藤原伝三郎さん。この方が二代目の幹事です。本当に豪快な方でした。三代目の幹事が太田定明さんで、この方はバイオリンの講師をされていました。非常にユニークな方が多かったです。川上儀三郎さん、奥村通さん、橋田勤さん、皆さん愉快な方でした。それと耳鼻咽喉科の三谷彰さん、この方もまたユニークな方でした。大庭の方に馬場を持っていまして、馬を飼われていましたので、時々お馬で来られました。これには驚きました。ほんのそこまでパカパカパカパカお馬で来られまして、ほんとにユニークでした。

福島邦光名誉会員談 ~その3~

事務局の須山さんにチャーターメンバーの名簿を作ってもらいました。33名でした。松江クラブから移って来られたのは幹事の森山時雄さん一人です。みんな全員新たです。最初はロータリーの「ロ」の字も知らなかったんですね。だから南だけでアディッショナルクラブをつくるという変則が、よくまかり通ったものだと思う訳です。その人達のお話をしたいと思います。

森山時雄(森山醤油当主)さんはベルリンオリンピック(1936年)の陸上の選手です。関西大学時代にたしか400メートルハードルだったと思います。城山の記念館に当時の森山さんの着られたユニフォームが飾ってあるはずです。森山さんは非常に掛軸が大好きで、たくさんお持ちでした。醤油で儲かったお金がみんな掛軸に代わったと話してらっしゃいました。

紀川会長

熱心に耳を傾ける紀川会長(役職は当時)

掛軸の軸の作り方などもスピーチで伺いました。当時、300年前の布が京都では残っていたそうで、その布で表装してもらおうとすると、当時でも数十万円掛かるとの事でした。森山さんは手続要覧なども本当にどこで勉強されているのか、うるさい方でした(笑)。そして、本当に面白い方でした。

市会議員の宗寂照さんも面白い方でした。宗寂照さんは京大出身のお寺さんでしたが、私が幹事の時に「福島君、あんなぁ、私はうまいものを出さないと例会にいかんぞ。」と話されていました。とにかく「昼飯は旨いもんをだせよ」といった調子で、本当に面白い方でした。お坊さんらしくないお坊さんでした。

最年少で入会して6年目に誰もやる人がいなかったので(笑)幹事をしました。本当に面白かったです。

そういえば昔、ロータリーには面白いルールがありまして、私が会計幹事をしておりました時に事務局から電話がありました。「福島さん、30万円ほどお金を貸して下さい」と言われるので「なぜですか?」と言うと、「ちゃんと要覧に書いてあります」と。「お金が足りない時は会計幹事に借りねばならん」と書いてあるので、今月本部に送る金が「ちょんぼし足らんもんだけん、貸して下さい。」と。私達も手続要覧を読んでないですから、そんな事が書いてあるとは思ってもみませんでした。今そんなところはないと思いますけどね。

それとこれはよその話ですけど、アメリカでは、ガバナーを引き受けると、ガバナー事務所の負担、全てガバナー負担だそうでございます。アラスカ州の日系のガバナーが来松された事があるのですが、そう言っておいででした。それで受けた場合は補助金を出さないといけないんじゃないかという話もでました。「すごい事だなぁ」という事で、基金をつくろうとなったのが事の真相でございます。

福島邦光名誉会員談 ~その4~

それと先月(令和3年)の3月21日に、佐藤允男会員が亡くなられました。彼は私の同級生でして、子どもの頃からの仲でした。彼はロータリーに入る前は青年会議所の理事長をされまして、卒業してすぐに松江南RCに入会して頂きました。

彼との思い出としましては、彼が青年会議所の理事長の時なのですが、突然彼から電話がありまして、今度の日曜日に予定を空けといてくれという事がありました。「とにかくお前に出て貰わんといけん」と。要するに、結局、松江市長と私と佐藤允男会員との3人対談をシンポジウムのようにして公会堂で行うという事でした。「なんでこんな企画したのか」と言いましたが、もう松江青年会議所のイベントとして計画が進んでいて、結局500人くらい集まりました。

彼は結構弁が立ちまして、それで何を言うかというと、松江市は大橋川の北の地域である「橋北」と、南の地域である「橋南」に市街地が二分されていて、その松江の「北」と「南」を結ぶ、今のくにびき道路、これが非常に問題になっているという話でした。この事に造船側と行政側とお互いの意見を聴取する会だったのです。それで「今日は本音で言ってもらいます。」なんて言われて、えらい会をやってもらいました。(笑)因みに、当時の市長は齋藤強(つよし)さんという方で、元は県の総務部長をしていた方です。

その頃は宍道湖大橋が企画されて有料橋となっていました。もし橋を固定橋にするならば水面上30メートルのところにゲタをしないといけないのですが、東朝日町のところに中国電力の送電線がありました。送電線がその高さだというのです。その上に橋を架けないと船が通れないのですが、しかしそんな高い橋は不可能です。もう一つの案に、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のように開閉橋にするという案がありました。そうすると、何かあった時に橋が上がっていると、救急車や消防車が通れません。この折り合いをどうつけるか、今日は両者の本音が聞きたいという訳です。困ってしまいました。

市長は「松江の交通の為に必要です」と言い、私は「県の橋なのか、市の橋なのか未だに決まっていないじゃないか、行政が本気になっていないのに、本気で議論しろと言ってもできないじゃないか」と申し上げました。場合によっては造船業を止めろという意味の話になります。造船所は4つありますが、うちはそのうちの1社です。当然ながら私の意見が全ての意見ではありません。しかし本気で考えて、松江市の橋の間には造船所なんか必要ないという総意があるのであれば、「本音を言えという事であれば、造船所をやめることも視野に入れた考え方というのはあると思う」と、本音で話しました。

そうしたら市長さんが本気になられました。当時で4社の造船所で千人くらいの雇用があったと思います。その雇用もみんな止めることも選択肢になるわけですから、齋藤市長は私の言葉に大変驚かれまして、たちまち県に対して大運動をされました。県でやれと。(笑)

それでこの話が実るわけです。1年半の月日を経て交渉がはじまりました。もし佐藤允男さんがこのシンポジウムを思いつかなかったら、今のくにびき大橋はできていなかったかもしれません。社会貢献、ロータリーの精神に通ずる様な貢献を、彼は青年会議所時代にしたという事を、皆さんにお話ししておきたかったです。本当にお酒が好きで愉快な方でした。昔は中学は5年間だったですが、その間ずっと一緒でした。

松江南RCで本当にたくさんの愉快な方と知り合えて大変光栄でした。

感謝状贈呈

福島邦光名誉会員の功績を称えて、記念品を贈呈しました

いかがでしたでしょうか。会場の雰囲気やお話の全てをお届け出来ないのが残念ですが、少しでも皆様にお伝え出来たら幸いです。

またこういった機会にお話を伺えたらと存じます。福島名誉会員、ありがとうございました!